最近、これまでの生き方を反省している。
自分の気持ちではなく、世間や他人が思っている(ように見える)「幸せ」に近づこうとしていたことを。
それは、「受験戦争」を勝ち抜いて、「就職戦線」を戦いぬき、「婚活」において狩り(笑)に出かけなければ手に入れられなかった。「出世競争」なんて、最後は皆負けるのが確定している。そんなものを追い求めて一体だれが本当に幸せになれるのだろう?
統合失調症になった私を決して見捨てないで、温かく見守り、一緒に遊んでくれた友人たちも、気が付くと皆、世の中の「何か」に傷ついて何となく悲しそうになってしまった。
結局、他人(のように見えるもの)からの尺度では幸せにはなれない。
世間?が言う「一人前」をやろうとすると、ほとんどの人が本当には幸せになれない。
自分の本当の気持ちを無視して、無理を重ねても、大切な大切な自分の命(時間)を無駄にすることにしかならない。
幸せは、他人から言われてなれるものではない。
幸せは、ある時感じるもの。
幸せは、人と分かち合うもの。
自分にとっての幸せは、結局自分にしかわからない。
そして、一見「人並みの幸せ」を手に入れて、とても悲しかったことがある。
それは、「自由」が無くなったこと。
時間は命そのものだ。
その時間のほとんどを「他人の尺度」に捧げなければならなくなってしまった。
私は何かを間違ってきてしまった!
これから、世間や多くの人から見たら、「え!?」というようなことでも、誰も不幸にならないのなら、試してみようかと考えている。
すでに、子どもの通知票を、よく読みもせずにハンコを押している私を見て、家族は「え!?」と驚いている。
他人がいう幸せなんてどうでもいい。
自分が、できれば周囲の人も「本質的に」幸せになれる方法のほうがいい。
皆になんと思われようと、自分にとっての自由な時間や本当にやりたいことをするのは大切にしていきたい。
馬鹿だって思われたっていい。
統合失調症で頭がぼーっとしていた時期に、仕事の内容が自分だけでは理解できなかったとき、恥ずかしくても迷惑をかけてもわからないことは全て人に聞いた。誰も馬鹿にする人なんていなかったよ。
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